Apr 26, 2010
結婚式枚の板をする。
結婚の約束がありジャシプニカ結婚式を挙げる結婚式場を必ずと言っていいほどの板をすることです。結婚式枚の板に行くことは、実際の雰囲気を確認できるので、非常に重要なことだと思います。また、結婚式の章のスタッフの対応もきちんと話を聞いているときに知ることができるため、重要だと思います。10年間働いていた会社が倒産して、私は就職活動をするようになった。しかし、もう35歳だ。この未曾有の不況で35歳で事務の仕事しか経験していない私を雇う会社があるだろうか。それよりも婚活初めて永久就職を狙った方がいいのではないか。そう私は35年の春ホンファルウル始めた。
希望あふれる春。晴れがましい気持ちで迎えるはずだった季節は、地震と津波が多くを奪った。肉親を亡くしても、新たな道へ進んでいく少年がいる。
【フォト】阪神・新井「野球には人を元気にする力がある」
??絶対に母さんを甲子園に連れて行く
橋本北斗君(15)の携帯電話の待ち受け画面にはそう書いてある。
今月、盛岡市にある野球強豪校の盛岡中央高校に入学するため、故郷の岩手県宮古市を離れる。津波被害で亡くなった母、真弓美さん(45)への思いを胸に刻んだ言葉だ。
真弓美さんは北斗君の中学時代、主将の母親として保護者をまとめ、手作りのお菓子を選手に振る舞ったり、応援グッズを作ったりと、いつもそばで応援してくれた。進学に迷ったときも背中を押し、高校で野球をする姿を一番楽しみにしていた。
津波のあった3月11日、高台にある自宅で、真っ黒の波が町をのみ込んでいく様子に呆然(ぼうぜん)とした。介護施設で働いていた真弓美さんとは連絡が取れず、卒業式の2日前、遺体で見つかった。入所者を助けるために施設に戻ったため、津波にのみ込まれたという。
「信じたくなかった。悔しかった。楽しみにしていた母さんに高校での野球を見せたかった」
震災被害やガソリン不足を考慮し、真弓美さんの火葬の日は家族で済まそうと連絡をしていなかったにもかかわらず、100人以上の人が火葬場に訪れた。母の偉大さを改めて実感した。
「母さんを失って、母さんは自分の周りの人との縁を作ってくれたと気づいた。人に感謝すること、人を思いやることを教えてくれた」。同じように甲子園を目指した兄は県大会決勝で敗れ、惜しくも出場を逃した。だからこそ、母を甲子園に連れて行きたかった。
「人のために死んでいった母さんのためにも必ず甲子園に行きます」
前を見たその目に迷いはなかった。(大渡美咲)
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東北電力は5日、同日午前9時?午後0時の時間帯の計画停電を実施しないと発表した。
5日午前5時44分ごろ、茨城県で地震があり、鉾田市で震度4を観測した。気象庁によると、震源地は同県沖で、震源の深さは約30キロ、地震の規模を示すマグニチュードは4.2と推定される。この地震による津波の心配はないという。
主な各地の震度は次の通り。
震度3=水戸市、茨城県日立市、常陸大宮市
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「ちょっと、家の裏に一緒に来て、見てくれ」
南相馬市の鹿島区北屋形。3月31日、高台の小野田等さん(58)宅からの眺めに言葉を失った。
戦前に浅い浦を干拓した数百ヘクタールの水田が、津波で水没した。浦の姿に戻ったままだ。上空を捜索の自衛隊ヘリが飛ぶ。
「地震で干拓地が1メートル沈下したと、ここの人たちは話している」
小野田さんは約10ヘクタールの水田を経営し、コシヒカリを自販する。うち3ヘクタールが海の水に漬かった。
福島第1原発の事故が追い打ちを掛ける。
田植えに向け、種もみを水に漬ける時期が既に来ているが、福島県は作付けの延期を県内の農家に求める。「いつまで続くのか」と怒りが募る。
鹿島区は「屋内避難」の指示が出た半径20?30キロ圏の外にある。
「家族も家も無事だったが、農家は風評被害に命を奪われる」
県産農産品の出荷の停止や自粛が相次ぐ中、近隣の生産者から「去年の秋に取れたコメなのに、東京の客から注文キャンセルが入った」とぼやかれた。「放射能など無縁のコメだと常識で分かるのに、なんでだ」
自身も震災3日目、支援をお願いに会津地方の友人を訪ねると、宿で「放射線検査の証明書が必要」と言われた。「検査会場に行くと、12時間も車中で待たされた。雪の中、2000人ほどがいた。人扱いじゃないとみな怒っていた」
冬の収入にと、7棟のハウスでイチゴを栽培する。3月が最盛期だが、地元の二つの青果市場は震災後に閉鎖。糖度が16度以上もある自慢のイチゴは赤々と熟す。
「鹿島区の認定農家はみな60歳前後。田んぼや機械を津波でやられた上に、風評被害。資金も厳しく『もうやめる』と言う人が多い。俺には田んぼが残ったが、周囲の復旧作業もある。今年はここでの稲作は難しいだろう」
コメを作って23年になる。旧原町市(現南相馬市原町区)の農家出身で、大手の重機販売会社で働いた後、帰郷。妻ひろ子さん(57)とログハウスを建て、1ヘクタールから始めた。
健康な苗づくりと疎植で強い稲を育てる。防虫液を考案し、コメの水分を保つ工夫も重ねた。「東京の友人も『うまいコメ』と応援してくれ、首都圏以西に150人の客ができた。一つ一つ縁を育てた」
得意客からは一件のキャンセルもなかった。「何があっても、あんたのコメを食べるよ」「今年も頑張って作れ」との電話が続いた。支援物資を車に満載し、イチゴを摘みに来た東京の料理店シェフもいる。「何よりの励み」と胸を熱くする。
農家を志す若者を育てる体験研修も企画し、5年前から東京や県内の大学生らがログハウスに集う。その夢も道半ばだ。
土壌に問題がないかどうか、県が鹿島区内外で調査した。今はその結果を待つ。「今年だけはやむなく、別の地域で10ヘクタール分を借りようと思うが、来年はまたここでコメを作る」
自宅前に、農家になって最初にコメを作った田んぼがある。この地に踏みとどまり、安全なコメが作れることを証明するため、5月になったら10アールだけの田植えをする。
(寺島英弥)
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